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<コラム>天安門事件30年――日中それぞれの国柄を考える契機に 施 光恒(せ・てるひさ)

<コラム>天安門事件30年――日中それぞれの国柄を考える契機に

From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学

天安門事件は1989年6月4日のことですので、今月はちょうと30年目に当たります。
天安門事件以降、中国は、経済発展は著しいものの、民主化への動きはほとんどみられません。今後はどうでしょうか。私は、やはり民主化は難しいのではないかと思います。
中国民主化運動のシンボルと言われ、天安門事件以後、米国に逃れた天文物理学者の方励之氏は、事件から5年後の1994年に『朝日新聞』とのインタビューで、「民主化運動の現状は?」と問われ、中国の民主化への展望について次のように語っていました。「高まっているとは言い難い。だが、それは人々が改革を望んでいないことは意味しない。それを表明できないことが問題だ。このためまず言論・報道の自由が必要だ。それが保障されれば、民主化への道を歩み始めたといえると思う。民主化のシンボルである中身のある複数政党制が、これに続くべきだと思う」(「中国民主化、まず言論・報道の自由を 天安門事件5周年で方励之氏に聞く」『朝日新聞』1994年5月4日付朝刊)
方励之氏は、このように言論・報道の自由が保障され、その後、複数政党制に移行するという民主化への道筋を思い描いていたようですが、どちらもまったくその兆しがみえません。
私は、もうだいぶ以前ですが、ある中国人の男子留学生と中国の民主化について話した時のことが記憶に残っています。その学生も、中国の民主化は困難だろうという見方でした。理由の一つは、中国には複数政党制はなじまないから、ということでした。 彼はだいたい次のようなことを述べました。
「広大な国土を持つ中国は、民族も言葉も宗教も本来的には多様である。国民相互の連帯意識や相互扶助意識も薄いと言わざるを得ない。そのため、国全体でほぼ均一の支持を得ることができる全国政党の成立は難しい。国政選挙を実施すれば、各地域で勝利する政党が大きく異なり、その結果、国が分裂し、混乱状態に陥る危険性がある。
中国人としては、国の分裂や混乱はやはり避けたい」。
私は、さらに問いました。「では、各地域の自治を認め、連邦制を採用したらどうだろうか?」その留学生の見解は次のようなものでした。 「連邦制も望ましくない。連邦制を採用すれば、例えば米国などの外国勢力がいずれかの地域に干渉し、親米勢力の浸透を図り、やはり中国をバラバラにしようと策略をめぐらしてくる可能性があるから」。
留学生とのこのやりとりが記憶に残っているのは、中国の民主化の難しさが端的に表れているからです。
国土が広大で、民族や宗教の構成も本来的には非常に多様な中国は、国全体をまとめ、安定した秩序を作っていくのが非常に難しいのです。「自由民主主義」という穏健な政治制度では、なかなか統治しきれないのでしょう。
これに関して、法文化論や刑法学などがご専門の一橋大学教授の王雲海氏の著書『「権力社会」中国と「文化社会」日本』(集英社新書、2006年)はとても興味深い観点を提示しています。
王氏は、日本と中国の社会を比較して、日本を「文化社会」、中国を「権力社会」と称しています。
王氏によれば、中国の社会を作り上げているのは根本的には政治権力です。
「中国社会の原点は国家権力にほかならず、国家権力こそが中国社会における至上的なもの(原理・力・領域)である」。 他方、日本の場合は、社会を作り上げているのは「文化」だと王氏は述べます。ここで「文化」とは、いわゆる常識、慣習、慣行、人々の伝統的道徳意識といったものを指します。王氏は次のように書いています。「社会の原点が何かという点から見ると、日本社会の原点は文化であって、文化こそが日本社会における第一次的なもの(原理・力・領域)である。いいかえれば、日本社会においては、社会現象をもっとも多く決定し、個々の国民の行動や生活にもっとも大きな影響及ぼすのは、権力でもなければ法律でもなく、むしろ、それら以外の「非権力的で非法律的」な常識、慣習、慣行などの、公式化されていない、民間に存在している文化的なものである」

・・・・・・・続く

日本酒のうんちく  白鶴酒造㈱大阪支社  町田 利博

<コラム>  日本酒のうんちく  白鶴酒造㈱大阪支社  町田 利博
 日本酒はその呼び名からわかるように、日本民族に固有な、長い歴史と伝統を持つ優れたお酒です。
また、日本酒は「清酒」とも呼びます。その語源は日本酒の生い立ちに由来し、酒税法上の分類に「清酒」と定義しています。「清い」という言葉は日本文化のポイントであり、「清い酒」という名称が千年以上も昔から今日まで使用されている事実は、日本酒は文化として受け継がれ発展してきたことを示しています。
日本酒は単なるアルコール飲料ではなく、フランスワイン、スコッチウイスキー、ドイツビールに匹敵する日本の文化的財産といえます。<コラム>をお読みいただいた皆さまの日本酒に対する関心が高まり、飲用機会が増えれば幸いです。

1.日本酒のトレンドについて
・高齢者を中心とするヘビーユーザーの飲酒量低下、若年層を中心とする低関与層の拡大により、マイナス成長続く。
・しかし、付加価値が高い比較的高額な商品の売上は増加。海外輸出が好調であるほか、インバウンド消費が日本人の低関与層を刺激し、国内消費にも明るい話題。
・2018年国内市場規模・・・約331,000百万円。 酒類全体の約1割占め、ビール類を除き、市場規模は乙類焼酎に次いで2番、輸入ワインの約2倍、梅酒の約10倍以上占める。
・製法別では、「普通酒」「本醸造」は減少傾向である一方で、「純米大吟醸」「大吟醸」「純米吟醸」 「吟醸」「純米」は増加。

2.日本酒の歴史  ~口噛み酒から清酒と呼ばれるまで~   ※奈良時代以前の説は推測です
【口噛み酒】穀類など澱粉質食糧での酒造り
・縄文後期・・・穀類を噛み唾液と混ぜることで澱粉質が糖化。野生の酵母が混入し醗酵。
東アジア一帯・東南アジア・南太平洋・中南米などで用いられていた製法とされる。縄文前期~中期にかけて国内の遺跡から山葡萄などで果実酒を造っていたと推測できるものが出土されており、後期には食糧である穀類の片栗・ユリの根・アワ・ヒエで酒を造っていたと考えられている。更に国内でも米の水田耕作が行われていたことも確認されており、「米」を原料にした酒があった可能性あり。
-国内での文献の初見は奈良時代初期。「大隈国風土記」「古事記」。
-明治時代まで沖縄で祭事用の酒に用いられる(うるち米使用)。酒名を「噛ミシ」といい、 「醸し」の語源との説も。
【米と米麹の酒】日本酒の原形(独自技術)
・弥生時代・・・三世紀「魏志倭人伝」 、邪馬台国で葬送の習俗として広く普及。「米麹」の使用は推測であるが、「米」の調理方法として炊飯ではなく蒸米(強飯)を行っていたので、「米麹」を使った酒があったとの説。
-「米麹」の使用については、奈良時代「播磨国風土記」に文献上の初見。
-カビが生えた米・・・「加無太知」「加牟多知」(噛む+カビ立ち)といい、「麹」の語源説に。
【清酒の登場】
・飛鳥後期・・・遺跡(木簡)に「須弥酒(すみさけ)」。「須弥」は濁った酒の上澄みを絹で濾すこと。奈良時代に「澄み」へ。
・奈良時代・・・平城京跡出土の木簡と文献「奉写経初解」に「清酒」の文字。
・平安時代・・・現在の宮内省にあたる役所の一部「造酒司(さけのつかさ)」で清酒製造を行う。
-律令「延喜式」に15種類の仕込法・配合表・酒造時期・酒造用具・原料米の使用高の記述。そのなかの「六そう(艘の舟なしの字)」の記述は大量の酒を漉し清酒を造っていた証し。
-計76人の官人(役職)と(大和・河内・摂津の酒造集団185戸)が従事。
◎江戸時代に鴻池の酒蔵で丁稚が腹いせに炭素を投入して「清酒」が誕生したという話は、庶民の読み物「喜遊笑覧」に登場する作り話。 日本酒は「清い酒」として昇華し、「文化」として継承され「産業」として発展を遂げましたが、それを支えたのは先人たちの弛まない努力による技術革新でした。次月のコラムでは、清酒製造の技術について掘り下げながら、今日の発展に大きく貢献した「灘の酒」「宮水」もご紹介しますが、最後に、今も賛否の論争がある「醸造アルコールの添加」は江戸時代に確立された技術であることに触れて締めくくります。

3.日本酒の歴史  ~技術の変遷  江戸時代~
・発酵末期の「もろみ」に醸造アルコールを添加し、「本醸造」や「普通酒」を造る技術。俗に「アル添」といわれる。
・江戸時代前期、「寒造り」を伊丹流が確立したことで、池田、伊丹が一大産地に発展。伊丹で酒質改善を目的として、試行錯誤の末、「もろみ」に「焼酎」を添加。辛口酒として絶賛され、灘地方にその技術が受け継がれ、世界最大の消費地とされる江戸において隆盛を極める。
・品質が長持ちししっかりとした味わいは「風味しゃんとして足強く」と評され、アル添を「柱を立てる」と呼ぶ。

以上

一人の天才よりみんなの時代  協同組合Masters 会長 濱出健一

<コラム>  一人の天才よりみんなの時代  協同組合Masters 会長 濱出健一

一人の天才より、みんなの時代が始まったと思います。
 グーグルは、みんなの意見を反映させることによって、最適なサイトをすばやく検索できるようにした。 科学の分野も、科学者たちが協力し合って、みんなの意見で研究されるようになった。 現代では、1人の万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチより、みんなの意見の時代なのである。・・・・・
 恵まれない環境の出身でも、人脈を広げていって成功をつかむ人がいる一方で、頭がよく、お金持ちでいながら、人付き合いが下手なせいでうまくいかない人もいる。
 人間は一人では成功できない。IQがいくら高くても、“誰に何を言うかを理解し、どのタイミングで言うか、そして、どのように言えば最大の効果があるか” がわかっていなければ、高いIQは浪費されてしまう
 ある時、友人に、大手の幹部を紹介してくれるように頼んだ。 しかし、友人は断った。 友人は「できません。というのは、私も、その大手の幹部に将来何か頼みごとをするかもしれないので、今ここで、幹部に借りをつくりたくないんです。自分自身が借りをつくれる余地を残しておかないと・・・」
 えっ? 紹介を断る? 私だったら、紹介すると思うけどな。 紹介を頼まれるほどの大物の知り合いがいないから、何とも言えないけど。 私が人脈をどんどん広げて成功していく人だったから、友人は邪魔したかったのかもしれない。 だけど、人の足を引っ張ろうとすると、結局自分の足を引っ張ることになる。

 嫉妬心が起こりかけたら、すぐに「彼とその富に祝福あれ」と、その人のために喜んであげなさい。 あなたは人の幸運を祝福してください。これはとりもなおさず、自分にその幸運を引き寄せていることになるのです。 日本のことわざに「人を呪わば穴2つ」というのがありますが、これはまさに、潜在意識の法則をよく言い表しています。人の不幸を願うと、自分にも不幸を引き寄せてしまうのです。
友人は、人脈という資産にはパイのように限りがあり、一切れ食べてしまえば、自分の取り分がそれだけ少なくなると思っていたのだ。だがそうではない。
 人と人とのつながりは筋肉と同じで、使えば使うほど強くなっていくのだ。
 お金とか、物質的な資産は、あげればなくなってしまうものだけど、愛とか人脈といった心から出てくる資産は、与えれば与えるほど、増えていくみたいですね。
 与えたいと願う私の心は海さながらに限りなく、私の愛は海のごとくにも深い。あなたに差しあげれば、差しあげるほど、私の胸の愛は増す。どちらも尽きることを知らないのだから。
 愛は、お金や品物とは根本的に性質がちがっていて、相手に与えれば与えるほど、自分の愛はなくなるどころか、逆にますます大きく、深くなるのだ。・・・・

『一生の財産は人脈力』
◎共感と熱意が人と人をつなぐ。
◎真の勝者になるには、ありのままの自分をさらけ出すことだ。
◎あなたの魅力は、あなたらしさの中にある。
◎成功している人の働き方、話し方、生き方を注意して見る。
◎臆することなく年長者に質問したり助けを求めたりできるようになれ。
◎気負わずに誰とでも話すことができると成功者になれる。
◎人との出会いはすべて助け合いのチャンスだ。
◎成功するには人と協力することが大切。
◎人と人とのつながりは筋肉と同じ、使えば使うほど強くなる。

人間は得意なことや好きなことをやった方が、何倍も、何十倍も力を発揮できる。そして不思議なことに、得意なことが伸びていくと、苦手なことがだんだん減っていく。
私自身、自分が熱中できることにだけ集中できるよう優先順位を変えた結果、人生が大きく変化した。 情熱に従って大好きなことを見つけてほしい。本当に満足するには、すごい仕事だと信じることをするしか方法がない。
そして、すごい仕事をするには、自分がすることを大好きになるしか方法がない。そうすればお金はついてくる。みんな信じないけど、でも本当のこと。大好きなことを追及し、自分の使命を果たす。どこに行きたいのかは心が知っている・・・・・

『スティーブ・ジョブズ驚異のプレゼン』 (参照)

何か日本の報道機関っておかしくないですか?  協同組合Masters 会長 濱出健一

<コラム>何か日本の報道機関っておかしくないですか? 協同組合Masters 会長 濱出健一
また、古い話になりますが皆さんはどう思われますか?
連合軍最高司令官によるプレスコードについては、その細目がアメリカ国立公文書館分室に保存されていました。
以下がその30項目であります。

1. SCAP(連合国軍最高司令官もしくは総司令部)に対する批判
2. 極東国際軍事裁判批判
3. GHQが日本国憲法を起草したことの言及と成立での役割の批判 《修正:2018年4月26日、江藤氏原訳
「GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判」 を英文原文に従い修正。修正根拠は記載のアメリカ
国立公文書館の典拠文書の記述に拠る。(細谷清)》
4. 検閲制度への言及
5. アメリカ合衆国への批判
6. ロシア(ソ連邦)への批判
7. 英国への批判
8. 朝鮮人への批判
9. 中国への批判
10. その他の連合国への批判
11. 連合国一般への批判(国を特定しなくとも)
12. 満州における日本人取り扱いについての批判
13. 連合国の戦前の政策に対する批判
14. 第三次世界大戦への言及
15. 冷戦に関する言及
16. 戦争擁護の宣伝
17. 神国日本の宣伝
18. 軍国主義の宣伝
19. ナショナリズムの宣伝
20. 大東亜共栄圏の宣伝
21. その他の宣伝
22. 戦争犯罪人の正当化および擁護
23. 占領軍兵士と日本女性との交渉
24. 闇市の状況
25. 占領軍軍隊に対する批判
26. 飢餓の誇張
27. 暴力と不穏の行動の煽動
28. 虚偽の報道
29. GHQまたは地方軍政部に対する不適切な言及
30. 解禁されていない報道の公表

 「サンフランシスコ平和条約の発効をもって失効している。」とされていますが、
  現在もなお基本が生きているように思いませんか。

   一般国民にとっては報道されていることが真実のように思ってしまうでしょう?
            出来る限り真実を伝えて行ける報道機関になって欲しいものですね。
                                我々も真実を見抜く力を養わなければなりません。

平成から新元号へ/Masters 会長 濱出健一

<コラム>平成から新元号へ/Masters 会長 濱出健一

 2016年天皇陛下が生前退位のご意向を表明されました。退位日を2019年3月31日とし、翌4月1日に皇太子様が新天皇に即位され、その日に新しい元号を施行することで政府は最終決定いたしました。
 昭和64年1月7日、当時の小渕恵三官房長官が“平成”と記された書紙を掲げた記者会見から30年と3ヶ月で“平成”という時代が幕を閉じ、新しい元号へと移行されます。インターネット上でも「次の元号は安久!!」というデマがツイッターで出回るなど次の新しい元号が何になるのか話題になっています。

 元号は漢の武帝の時代に中国で生まれ、朝鮮そして日本へ渡ってきた年の数え方です。元号は王や君主などの時代の権力者が定めていました。その時代に名称をつけるということは「土地や空間だけでなく時間も支配する」という意味を持ち、権力の象徴の一つになっていました。日本で最初の元号は、歴史の教科書で必ず習う「大化の改新」で有名な「大化」です。それから現在の平成まで1300年以上に渡って元号が使い続けられています(始まりの中国ではもう使われていません)。ちなみに「平成」まででトータル247の元号が使われています。

 天皇御一代につき一つの元号とされたのは明治以降であり、それまでは同じ天皇の在位中に改元されることは珍しいことではありませんでした。大地震や大火、飢餓の発生、疫病が流行した際に改元が行われてきました。改元には権力の象徴ではなく、厄災を振り切り新たな時代を切り拓くという願いが込められるほど、日本では元号を大切にしてきた歴史があるのです。

 「平成」という元号が選ばれるにあたって決められていたルールは6つ、①国民の理想としてふさわしい意味を持つ、②漢字二字、③書きやすい、④読みやすい、⑤外国を含め過去に元号やおくり名として使われていない、⑥俗用されていない、ということでした。他にも、書類上やパソコンの普及による、M(明治)、T(大正)、S(昭和)という各元号のアルファベットとかぶらないようにも考慮されています。
 「平成」には、国内外、天地とも平和が達成されるという意味が込められているそうです。平和ボケがささやかれる日本ではありますが、近頃の自然災害や隣国との緊張関係など平和が脅かされることが少しずつ増えてきているようにも感じます。新しい元号が、新しい風を日本へもたらしてくれることを期待したいです。
 

行動経済学/Masters 会長 濱出健一

<コラム>行動経済学/Masters 会長 濱出健一
    2017.10.9 2017年のノーベル経済学賞を行動経済学に貢献した米シカゴ大のリチャード・セイラー教授に授与すると発表しました。
受賞理由は行動経済学の分野での研究です。人々が悪い意思決定を下してしまう理由に関しての画期的な研究が評価されることとなりました。
 行動経済学とは、従来の経済学では示すことができなかった社会現象や経済行動を人間の行動を観察することで説明しようとする新たな経済学です。従来、人は合理的かつ功利的な判断で動くと考えられていましたが、人間は感情で動く生き物のため、自己の経済利益を最大化させるために行動できる人間は存在しません。
そこで、人間の非合理的な行動について、心理学的な見地も念頭に置きつつ理論的に説明する試みが行われるようになりました。これが、行動経済学です。

行動経済学では、非合理的な行動をとるのは一定の法則があると定義されており、その法則を研究する経済学のことで、2002年に心理学者のダニエル・カーネマンがノーベル経済学賞を受賞して以来、注目されるようになりました。

 行動経済学の核といわれているのが「プロスペクト理論」と呼ばれるものです。
プロスペクト理論は、人は利益を得る場面では「確実に手に入れる」ことを優先し、反対に損失を被る場面では「最大限に回避する」ことを優先する傾向があるという心理状態を表した理論です。ギャンブルに例えると、始めは倍率が低くても勝てる確率の高い勝負をします。ここでは倍率が小さくても、「確実に勝ちたい」という心理が働いているからです。
しかし、徐々に負けが込み始めた場合、今度は倍率の小さい勝てる勝負をするのではなく、少しでも早く負けた分を取り返すように倍率の高い勝負に出ようとする心理が働きます。
実際、人は獲得の喜びよりも損失の痛みの方が2~4倍大きく感じるといわれており、「失う恐怖」を何よりも避けたいと考えているのです。

 この「失う恐怖」が近年の政治、政府、大企業の中に蔓延して新しいことが出来ない、一歩踏み出すことよりリスク回避のことばかりを考えすぎているのではないでしょうか。

 前述した行動経済学はあくまでも、一例に過ぎません。他にも、「アンカリング効果」や「フレーミング効果」など、どこかで耳にしたことがあるのではないでしょうか。

  行動経済学は、より「人間的 」な学問といえます。
さらに、日々研究や実験も進んでおりまだまだ発展を遂げそうです。現在、行動経済学はマーケティングや商品企画といった様々な分野で活用されており、行動経済学の心理的効果を学ぶことで、より早く相手の狙いを見つけ出すことができるようになるかもしれません。

経済評論家 / 経世論研究所所長 三橋貴明 (月間三橋 より転載) 会長 濱出健一

<コラム>経済評論家 / 経世論研究所所長 三橋貴明 (月間三橋 より転載) 会長 濱出健一

“日本は、世界の覇権国になる力がある”

経済評論家、三橋貴明は、公表されたデータや事実に基づいた主張でさまざまな「デタラメ」を暴いてきたことで知られる。韓国企業が躍進している中「日本も韓国に見習え」という空気が強かった時代には、データに基づいて、本当は脆弱であった韓国経済の正体を暴いた。
 「国の借金」が莫大だ、借金1000兆円で日本がデフォルトすると言われてた頃には、政府の負債(「国の借金」という呼称は誤りです)が100%日本円建てである以上、親会社(日本政府)が子会社(日本銀行)に借金する、つまりは日本銀行に国債を買い取らせるだけで、負債の返済負担が事実上消える。現実には財政問題など存在せず、日本経済は世界で一二を争うほど、強く健全だという事を明かした。
もともと日本は昔から大国で、今でも世界の覇権を握れるポテンシャルはある。しかし、このような間違った情報や、マスコミの自虐史観などのせいで、本来のポテンシャルを発揮できず、日本が「衰退途上国」と化していっている。三橋貴明は、それを正すため10年以上も、さまざまな形で情報発信、言論活動を続けてきた。異能の国士であり経済評論家である。
 あなたは、「日本が中国の属国になる」と言われて、どんな印象を受けますか?
日本は今、様々な危機に瀕していると言われています。
・間違った経済政策によって、もう20年以上もデフレーションが続いています
・世界でも類を見ない少子高齢社会に突入し「成長は不可能」と悲観ムードが日本を覆っています
・年金制度は破綻したとされ、将来もらえる年金額は更に削られようとしています
・医療保険も破綻したとされ、国は私たち国民に更なる負担を強いようとしています
・労働者不足だからと低賃金の移民を受け入れた結果、日本人の給料も低くなりました
・インフラが老朽化し、地震、台風、噴火、津波といった自然災害に耐えきれなくなっています
このまま日本は衰退するだけと言われています。しかし、本当にそうなのでしょうか?日本はこのまま衰退するしかないのでしょうか?年金制度も医療保険も日本の財政も、全て破綻しているのでしょうか?
「そうではない」と三橋貴明は断言します。
日本はかつて、欧米列強の植民地支配からアジアを解放するほどの力をもった強国でした。激しい局地戦、本土への空襲、2発の原爆を落とされ、ボロボロになったにもかかわらず、必死で欧米に食らいつき、大東亜戦争に敗北した後も、わずか20年で世界第二位の経済大国にのし上がった大国でした。日本の底力はこんなものではありません。まだまだ経済成長する可能性が残されています。
超少子高齢社会は一見ハンデに思えますが、それすらもチャンスに変えることも可能だと三橋貴明は言います。全ての国民が豊かになる経世済民の国家は、十分、実現することができるのです。ただ、経世済民の国家を実現するためには、正しい経済の知識を世に広める必要があるのですが、従来のメディアには数々の問題があり、われわれ国民は、正しい知識を手に入れることができません。
「米中貿易戦争のカラクリ~99%の日本人が気づいていない新パラダイムへの大転換」
2018年3月、アメリカは輸入される鉄鋼に25%、アルミニウムに10%の関税を課す輸入制限を発動させた。その後、関税等のターゲットは中国に絞られ、中国も報復措置に出るなど、「米中貿易戦争」の様相を呈する情勢となった。
また、9月26日に出された日米共同声明には「日米両国は,第三国の非市場志向型の政策や慣行から日米両国の企業と労働者をより良く守るための協力を強化する。したがって我々は,WTO改革,電子商取引の議論を促進するとともに,知的財産の収奪,強制的技術移転,貿易歪曲的な産業補助金,国有企業によって創り出される歪曲化及び過剰生産を含む不公正な貿易慣行に対処するため,日米,また日米欧三極の協力を通じて,緊密に作業していく。」と、明らかに中国をターゲットとして、不均衡な貿易に対処していくとコミットしている。
ところが、安倍総理は10月に訪中し、習近平国家主席らと会談。この際、数百人もの日本の経済人を引き連れ、中国の企業と50を超える覚書を交わしたという。アメリカから見れば「米中貿易戦争」で日本は中国側につくと宣言したに等しい。
アメリカ国防総省が「一帯一路は中国の軍事戦略である」とまではっきり言っているなか、日本はどうなってしまうのか。    皆様はどう思われますか?・・・・・・・・・・・・・・・・・
 

―お布施の話―/会長 濱出 健一


<コラム> ―お布施の話―     会長 濱出 健一

前回の月例会で私がお話させて頂いたことを再度コラムに書かせていただきました。
お釈迦様のお弟子さんに目連尊者という方がいらっしゃいます。
目連は修行で神通力を得た人で、神通第一として称えられるほどの人です。
ある日、目連は「私を育ててくださった母親は元気だろうか?」と思い、神通力を使って母親を透視することにしました。天道、人減道、修羅道、畜生道と透視しましたが母親を見つけることが出来ず、地獄を透視すると母親は我鬼道にいることを知りました。餓鬼道とは食べた物が炎となり、飲み水が熱湯となる世界です。そして空腹のゆえに腹は腫れ、鬼の姿として生きるのです。
目連はその姿に戸惑いました。たくさんの食べ物や飲み物を用意してくださった心の優しい母親がなぜ餓鬼道という苦しい世界に落ちたのか。その理由をお釈迦様に尋ねることにしました。
お釈迦さまは「あなたの母親はあなたには優しかった。しかし、あなたの母親は他人に施すことがありませんでした。」
あるとき、目連の母親が両手いっぱいの食べ物を運んでいたとき一人のお坊さんが「何か食べ物を恵んでくださいませんか」とお願いしたところ「これは目連の分だからあんたにあげる物何もないよ」と言って去っていきました。また、目連の母親が大きな水瓶を持っていた時、村人が「暑くて意識がもうろうとして今にも倒れそうだ。良ければその瓶の水を分けていただけないだろうか」とお願いすると、母親は「これは目連の分だからあんたにあげる物は何もないよ」と言って去っていきました。
目連の母親の心は貪りの心にとらわれていたのです。そのため、欲しくてもその渇きを潤すことのできない餓鬼道に落ちてしまったのです。さて、目連はそれでも母親を救いたいと願い、お釈迦様にどうすれば助けられるかと尋ねたところ、「母親が他人にしなかったことをしてあげなさい」と言われました。目連はさっそくお坊さんや村人を集めてたくさんの食べ物、飲み物を施したところ母親が天道に昇る姿が見えました。目連はうれしさを体で表現しました。一説にはその動きが今日の盆踊りとして伝わったと言われています。また、目連の施しは盂蘭盆会(お盆)として日本に伝わり、私たちもご先祖様に施しをするようになったと伝わっています。目連の母親に足りなかったものは布施の心です。布施と言ったらお坊さんに渡す物を思いますが、それは布施の一部にすぎません。 物やお金がなくても人のために無償で動くことが布施です。
他人のために何かをして、互いに助け合うことが大切なのではないでしょうか。
この考え方が協同組合の根底の精神であり互いに助け合うということが自分にも利益をもたらすという結果になり、ともに栄えるということです。
話を変えると、『欲せんとするには先ず与えよ』ということです。
愛される〇〇」という言葉があります。
それはこの愛される愛するに変えて座右の銘の一つにされてはどうでしょうか?
もちろん愛するは愛されるを意味し、本質的にも結果的にも同じです。
しかしながら、私には、されるは「俟(ま)つあるを恃(たの)み」となり、するはより能動的な、一歩前進に思われます。
また、愛される前に愛することは観念的にも道義的にもそうあるべきで、その真理は「播かぬ種は生えぬ」の道理に通じ、「欲せんとするには先ず与えよ」の精神です。また「果たして求める」の結果かと思います。
さて、この愛という言葉についても、いろいろと解釈は有りますが、私がもっとも共鳴するのは、「愛とはその人の気持ちになること」と、具体的に定義づけた解釈です。
「相手の身になって考える」ということです。
例えば、親が子に何かを買い与えてやる場合も、その子供の気持ちを知らず自分本位の考えによる品物では、子供にそっぽを向かれてしまう可能性があるわけです。それは、夫婦、兄弟、友人、あるいは職場等のすべての関係に共通します。お互いが相手を理解してそれを叶えてやるのか、またそのように努力する、この現代社会においては、とくに必ず必要になる条件ではないでしょうか。
皆様、是非「協同組合とは何ぞや」ということを今一度深く考えて見てはどうでしょうか。
考える場に参加して見てはどうでしょうか。
議論する場に参加して見てはどうでしょうか。


「他利」とは何か?
次回月例会は、11月21日(水)15時より開催します。
※独自の技術・商材に興味や情報をお持ちの方、コラボレーションにご興味のある方はお気軽にご連絡下さい。
連絡先:TEL06-6110-8050 E-mail:ryu.takahara@masters.coop 協同組合Masters 担当:高原、濱出

「利休の酒」~堺の酒蔵復活物語~ 2 (事実に基づいています。) Masters顧問 森脇太郎

<コラム> 「利休の酒」~堺の酒蔵復活物語~ 2 (事実に基づいています。) Masters顧問 森脇太郎

浪花の海風
 堺は泉州の南の端に位置している。海辺に立てば、六甲の山々が手が届くかのように近くに見える。「そや、あの山の下を通って、地下水が西宮辺りに湧いて出てるんや。宮水言うて、昔から酒の仕込み水に使われてる。あの酒造りの町で、一生懸命頑張ってええ酒造り続けてるあいつに、この話を頼むしかない。」
 隆三は酒蔵にと目星を付けていた、老舗の料亭の主人との仮契約を済ませ、次の課題を一気に片付けようとしていた。
 老舗料亭の主人は、契約を済ませた後、隆三に言った。「あんさんらが、うちの店の後を使うて、堺に酒蔵を復活させてくれはるんやったら、私らも本望ですわ。」
 この言葉は彼を勇気づけ、次の目標達成へと力強く押し出してくれた。もう彼には何の迷いもなかった。隆三は真っすぐに目的地に向かった。そこには年来の友人で、六甲山の麓で酒蔵を営んでいる、和泉が待っていてくれた。
 和泉はまだ迷っているようだった。無理もない、代々この地で続けていた酒造りを、そう簡単にほかの土地に移してしまうことなど、思い切れるものではなかった。
 隆三は和泉の気持ちが、痛いほど分かっていたが、それを考慮する時間的な余裕は彼にはなかった。「このままここに残るのか、それとも儂と一緒に堺で新しい酒造りを始めるのか。今すぐに、ここで決めてくれ。」隆三は和泉に強く迫った。彼も必死だった。
 その迫力に、遂に和泉も首を縦に振った。「分かりました、西郷さんの情熱に感服しましたわ。これからは堺で一緒にやりまひょ、新しい蔵で新しい酒を造りまひょ。どうぞよろしゅう頼んます。」これは和泉にとって大変な決断だったと、隆三は心の底から思った。感謝の気持ちで、胸が一杯になった。
 「おおきにおおきに、ほんまにおおきに。これで堺の酒蔵が再興できる、君のお陰や。」六甲の山々は、少し色付いて来ているように見えた。長い間追い掛けて来た堺の酒蔵再興の夢が現実となって、彼の目の前にあった。山に秋が近づいているのを、知らずに過ごしていたことに、隆三はやっと今気が付いた。
 「こんな綺麗な景色見るのん、なんや久し振りのような気がするわ。」夢中で走り続けてきたこの十年程を振り返って、隆三はいかに自分が無我夢中で、堺の酒蔵復興にのみ時間を注ぎ込んで来たのかを、心底思い知ったのだ。
 和泉の蔵から、少し山の手に上がり六甲を背にして、隆三は目を細めながら遠くを眺めた。
 眼下には神戸から芦屋にかけての街が広がり、その向こうにキラキラと輝く海を隔てて、大阪から堺そして泉州の山々を望むことが出来た。
 隆三の目には真下の酒蔵の街から、浪花の海を隔てて堺の街まで、大きな虹が掛かっているように見えた。美しい虹の橋を渡り潮風に載って、自分の十年来の夢が現実となって、堺の街に届いたことを強く感じていた。
 早速、酒蔵造りの作業が始まった。1階の駐車場と倉庫部分をきれいに空っぽにして、酒の仕込みのための冷蔵室を設え、その周囲に蒸米用の蒸気ボイラーや甑(こしき・大型のセイロ)を配置して、水道や蒸気の配管をつなぎ、麹を作るための室(むろ)も作って、その後、真ん中に米を洗ったり蒸米を冷やしたりするためのスペースを確保した。
 「これで酒造りが始められる。みんな心を一つにして沢山の人に喜んでもらえる、ええ酒を造るためにがんばろうな。」隆三は志を同じくし、堺の酒蔵復興のために集まってくれた数人の人達と手を携えて、千利休の名に恥じない銘酒を造ることを固く心に誓った。十数年続いた模索の時は終わり、蔵の設えも整って、兵庫県三木吉川の特A地区の酒米、山田錦を高々と積み上げ、いよいよ船出を待つばかりであった。
 蔵造りに奔走した激動の1年は年の瀬を迎え、隆三は月の光を背に浴びながら、浪花の海風に乗ってここまで来た今の喜びを噛みしめていた。 

ご存知でしょうか。  かつて堺が日本有数の酒どころであったことを。
現在、堺の製造業といえば、刃物や自転車、線香、和ざらし、手織段通などが知られています。しかし、大正時代までは堺の製造業の第一位を酒造業が占めていたことを知る人は、もうほとんどいません。堺の酒造業の始まりは中世・室町時代といわれ、江戸時代の初めには京、大坂、奈良と並んで、堺は全国的な酒どころとして聞こえていました。当時、酒好きの江戸っ子たちに“下り酒”としてもてはやされた上方の酒を運んだのも、やはり堺の商人が考案した「菱垣廻船」です。明治以降も、堺の酒造業者の鳥井駒吉(現アサヒビールの創始者)が瓶詰め酒を考案し(それまで日本酒はすべて樽詰め・小売りは量り売り)、流通の革新に貢献。また、醸造改良試験所や醸造組合も堺の酒造業者が他に先駆けて設立するなど、日本酒の普及、業界の発展を牽引してきました。ところが、堺の酒造業は大正時代をピークに、昭和に入ってから下降を続け、明治13年には95軒もあった蔵元が昭和8年には24軒まで減少し、昭和46年を最後に堺の酒づくりの火は消えてしまいました。

自由都市、町衆文化の町”の輝きと  活力をもう一度、堺に。
堺市は政令指定都市として規模的には大きく成長しましたが、地方の地盤低下のなか、例外ではなく活気を失いつつあります。そしてまた、人口が増え市域がどんどん拡大するにつれ、歴史や文化、伝統への関心が薄れ、まちのアイデンティティも失われつつあるのが現状ではないでしょうか。堺は室町時代から戦国時代にかけての中世16世紀、遣明船の発着地として栄え、豪商たちが「納屋衆」や「会合衆(かいごうしゅう・えごうしゅう)」と呼ばれる自治組織を形成して自由と自治を守り、日本一の先進都市を築いて、さまざまな文化を生み、育んでいました。しかし、今日ではその栄華も旧市街に残る寺社、旧跡にかすかな面影をとどめるだけで、“黄金の日々”をしのぶよすがはほとんどありません。私達が堺の地に酒蔵を再建し、堺の地酒の復興を企図し、さまざまな活動を続けてきたのも、かつての会合衆の気概にならい“自由都市、町衆文化の町・堺”の輝きと活力を取り戻したいと願うからに他なりません。


次回月例会は、10月17日(水)15時より開催します。
※独自の技術・商材に興味や情報をお持ちの方、コラボレーションにご興味のある方はお気軽にご連絡下さい。
連絡先:TEL06-6110-8050 E-mail:ryu.takahara@masters.coop 協同組合Masters 担当:高原、濱出

「利休の酒」~堺の酒蔵復活物語~ (事実に基づいています。) Masters顧問 森脇太郎

<コラム> 「利休の酒」~堺の酒蔵復活物語~ (事実に基づいています。) Masters顧問 森脇太郎

1.浜寺に吹く風

ざわざわ、ざわざわっ、大阪堺の海近く、青々と広がる美しい松原の中に、彼は一人佇んでいた。突然、傍の老松の枝が大きく揺れ、天からしゃがれた声が降ってきた。
「良いか、儂の名を冠する酒を造りたいのなら、我が名を傷つけぬ、麗しき酒を醸すのじゃぞ。お前にそれが出来るかのう。まあ楽しみに待って居るわ。あっははははっ。」
「えっ、なんや今のは、ひょっとしたら利休はんの声か、」 彼は少し酔いの残った頭を振って、寝っ転がっていたベンチから、ゆっくりと起き上がった。
ここ数年、彼は悩みに悩み、試行錯誤の荒海にもまれ続けていた。彼の名は西郷隆三、大阪河内で老舗酒造蔵の頭首として、豊臣秀吉ゆかりの銘酒を世に出し、好評を博していたが、急な病に倒れ第一線を退き、若い頃慣れ親しんだここ浜寺の地で、療養を兼ねながら悠々自適の日々を送っていたのだ。しかしそんな隆三を、堺の町の人達はほおっておいてはくれなかった。
日本各地に地方再生の機運が盛り上がる中、御多分に漏れず堺も町興しのための核になるものを探していた。「物の始まりはすべて堺」という言葉があるように、堺にはあらゆるモノづくりの種があった。もちろん酒も堺の名物ひとつであった。
江戸から明治にかけては、日本有数の酒所として、堺湊から江戸表に菱垣廻船で大量の酒の大樽を送っていた。しかし太平洋戦争の敗戦後、大阪湾沿岸に押し寄せた工業化の波を受けたこともあって、昭和40年代の半ば頃には、堺の町中から酒蔵がすっかり姿を消してしまった。それから40年近くが経ち、今や酒蔵の復活は、その歴史を知る堺の人々にとって悲願であった。
男気一本の隆三はそんな人々の期待を一身に引き受けて、西に東に、南に北にと、奔走する毎日を送っていた。酒造りの世界で心通わせた友人だけでなく、学生時代からの多くの友人が、物心両面からの応援を続けてくれている。「みんなの気持ちに応えるために、どないしても一日も早う、堺で酒造りを再開せなあかん。」待ったなしの焦りに背中を押されても、60歳を過ぎた隆三には、その荷の重さに時折、「もう儂にはこの夢の実現は、ちょっと無理なんかも知れへんなあ。」そんな思いが頭をかすめることがないでもなかった。
気弱になりそうになった時、永年連れ添った妻の恵美子が彼をそっと支えた。前に出すぎるでもなく、静にそばに居て優しく癒してくれる、夫婦の自然な姿がそこにはあった。家に戻った隆三に、恵美子が微笑みながら声を掛けた。「あなたが毎日好きなことに一心に打ち込めるのは、皆さんの暖かいご支援があったればこそですわよね。それを忘れちゃあ、罰があたりますわね。」
「そらほんまにそらそうや、儂もいつも感謝してんねんで。そやから早よええ結果を出したい思うて、毎日あっちこっち動いてんねんやがな。」
二人の会話は、浜寺の風に載って、夕闇迫る赤い雲の彼方へと吸い込まれていった。そう、まるで聞き耳を立てていた、千利休の耳元に届くかのように。
隆三の堺の酒蔵復活の夢は、堺の人々の熱い思いと一つになって、今まさに現実になろうとしていた。
隆三は思案に暮れると、度々浜寺の松原を歩いた。昔は海のすぐそばに広がっていただろう白砂青松のこの地が明治の初め頃、開発のため消えかかったことがあった。それを聞いた明治の元勲大久保利通が、その美しさを惜しんで、救ったのだと言う。そんな謂れを思い出しながら、ある初秋の黄昏時、隆三はいつものようにこの松原の散歩を楽しんでいた。
ふと遠くから、自分の名を呼ぶ声が聞こえたような気がした。浜寺の松原は広々として、松の大木が密生しているため、声が聞こえても、誰が何処で呼んでいるのか、すぐにはわからなかった。きょろきょろと辺りを見回す隆三の目に、走りながら近づいて来る長身の若者の姿が飛び込んできた。
「西郷さん、お家に伺ったんですが、お留守で。奥様が主人は松原に散歩に出かけましたて言いはるもんやから、走ってきて今さっきから探してましてん。」 その青年は隆三の酒蔵再興の熱意に共鳴して、協力を申し出てくれている、上畑だった。隆三は申し訳なさそうに言った。
「そらえらいすまなんだのう、電話くれたらすぐに帰ったのに。何ぞ急な用でもあったんか?」 上畑が息せき切って答えた。「ええそうなんです。西郷さんが言うてはった、蔵を作るためのさしあたっての追加の軍資金、何とか目途がつきそうなんですわ。」それを聞いた隆三の胸に、ぽっと明かりが灯った。辺りには静に夕闇が迫っていた。
「ほんまか?そらありがたいわ。おおきにようやってくれたなあ。」隆三は上畑の手を取って、満面の笑みを浮かべた。これで一歩も二歩も前進できる。隆三は胸の高鳴りを抑えることができなかった。
そや早い方がええ、明日あそこへ行ってこよう。あの儂が蔵の候補に選んでた、堺東の駅前の古い料亭の跡や、家主さんに話をつけて、すぐにでも改造工事に取り掛かろう。
隆三の頭の中で、生き生きとした思案が、ぐるぐると回り始めた。もうちょっとや、もうちょっとで、利休はんにも恥ずかしない、上等の酒を造ることが出来るんや。しかし隆三には解決しなければならない、もう一つの重大な問題が残っていた。それは酒造免許の取得である。今まで何度も手が届きそうになっては、費えていたこの一番大事な課題を、この際一気に解決しようと考えた。
もうこうなったら、明日いっぺんに両方ともやってしもたろ。あの男のところに行って、儂と一緒に堺で酒造りしようて、決心させたろう。もう待った無しや。
よっしゃあ、やるでえ、利休はん待ってておくれやっしゃあ。隆三は辛気臭いことが、大嫌いであった。腹を決めた隆三の背中を十五夜の月が優しく照らし、利休の安堵のため息のような柔らかい風が彼の頬を撫でていった。「隆三よ、しっかりやるんやで、この利休がついてるさかいな。」そんな声がどこからか聞こえてき終わりの夜であった。(次回へつづく)