「利休の酒」~堺の酒蔵復活物語~ (事実に基づいています。) Masters顧問 森脇太郎

<コラム> 「利休の酒」~堺の酒蔵復活物語~ (事実に基づいています。) Masters顧問 森脇太郎

1.浜寺に吹く風

ざわざわ、ざわざわっ、大阪堺の海近く、青々と広がる美しい松原の中に、彼は一人佇んでいた。突然、傍の老松の枝が大きく揺れ、天からしゃがれた声が降ってきた。
「良いか、儂の名を冠する酒を造りたいのなら、我が名を傷つけぬ、麗しき酒を醸すのじゃぞ。お前にそれが出来るかのう。まあ楽しみに待って居るわ。あっははははっ。」
「えっ、なんや今のは、ひょっとしたら利休はんの声か、」 彼は少し酔いの残った頭を振って、寝っ転がっていたベンチから、ゆっくりと起き上がった。
ここ数年、彼は悩みに悩み、試行錯誤の荒海にもまれ続けていた。彼の名は西郷隆三、大阪河内で老舗酒造蔵の頭首として、豊臣秀吉ゆかりの銘酒を世に出し、好評を博していたが、急な病に倒れ第一線を退き、若い頃慣れ親しんだここ浜寺の地で、療養を兼ねながら悠々自適の日々を送っていたのだ。しかしそんな隆三を、堺の町の人達はほおっておいてはくれなかった。
日本各地に地方再生の機運が盛り上がる中、御多分に漏れず堺も町興しのための核になるものを探していた。「物の始まりはすべて堺」という言葉があるように、堺にはあらゆるモノづくりの種があった。もちろん酒も堺の名物ひとつであった。
江戸から明治にかけては、日本有数の酒所として、堺湊から江戸表に菱垣廻船で大量の酒の大樽を送っていた。しかし太平洋戦争の敗戦後、大阪湾沿岸に押し寄せた工業化の波を受けたこともあって、昭和40年代の半ば頃には、堺の町中から酒蔵がすっかり姿を消してしまった。それから40年近くが経ち、今や酒蔵の復活は、その歴史を知る堺の人々にとって悲願であった。
男気一本の隆三はそんな人々の期待を一身に引き受けて、西に東に、南に北にと、奔走する毎日を送っていた。酒造りの世界で心通わせた友人だけでなく、学生時代からの多くの友人が、物心両面からの応援を続けてくれている。「みんなの気持ちに応えるために、どないしても一日も早う、堺で酒造りを再開せなあかん。」待ったなしの焦りに背中を押されても、60歳を過ぎた隆三には、その荷の重さに時折、「もう儂にはこの夢の実現は、ちょっと無理なんかも知れへんなあ。」そんな思いが頭をかすめることがないでもなかった。
気弱になりそうになった時、永年連れ添った妻の恵美子が彼をそっと支えた。前に出すぎるでもなく、静にそばに居て優しく癒してくれる、夫婦の自然な姿がそこにはあった。家に戻った隆三に、恵美子が微笑みながら声を掛けた。「あなたが毎日好きなことに一心に打ち込めるのは、皆さんの暖かいご支援があったればこそですわよね。それを忘れちゃあ、罰があたりますわね。」
「そらほんまにそらそうや、儂もいつも感謝してんねんで。そやから早よええ結果を出したい思うて、毎日あっちこっち動いてんねんやがな。」
二人の会話は、浜寺の風に載って、夕闇迫る赤い雲の彼方へと吸い込まれていった。そう、まるで聞き耳を立てていた、千利休の耳元に届くかのように。
隆三の堺の酒蔵復活の夢は、堺の人々の熱い思いと一つになって、今まさに現実になろうとしていた。
隆三は思案に暮れると、度々浜寺の松原を歩いた。昔は海のすぐそばに広がっていただろう白砂青松のこの地が明治の初め頃、開発のため消えかかったことがあった。それを聞いた明治の元勲大久保利通が、その美しさを惜しんで、救ったのだと言う。そんな謂れを思い出しながら、ある初秋の黄昏時、隆三はいつものようにこの松原の散歩を楽しんでいた。
ふと遠くから、自分の名を呼ぶ声が聞こえたような気がした。浜寺の松原は広々として、松の大木が密生しているため、声が聞こえても、誰が何処で呼んでいるのか、すぐにはわからなかった。きょろきょろと辺りを見回す隆三の目に、走りながら近づいて来る長身の若者の姿が飛び込んできた。
「西郷さん、お家に伺ったんですが、お留守で。奥様が主人は松原に散歩に出かけましたて言いはるもんやから、走ってきて今さっきから探してましてん。」 その青年は隆三の酒蔵再興の熱意に共鳴して、協力を申し出てくれている、上畑だった。隆三は申し訳なさそうに言った。
「そらえらいすまなんだのう、電話くれたらすぐに帰ったのに。何ぞ急な用でもあったんか?」 上畑が息せき切って答えた。「ええそうなんです。西郷さんが言うてはった、蔵を作るためのさしあたっての追加の軍資金、何とか目途がつきそうなんですわ。」それを聞いた隆三の胸に、ぽっと明かりが灯った。辺りには静に夕闇が迫っていた。
「ほんまか?そらありがたいわ。おおきにようやってくれたなあ。」隆三は上畑の手を取って、満面の笑みを浮かべた。これで一歩も二歩も前進できる。隆三は胸の高鳴りを抑えることができなかった。
そや早い方がええ、明日あそこへ行ってこよう。あの儂が蔵の候補に選んでた、堺東の駅前の古い料亭の跡や、家主さんに話をつけて、すぐにでも改造工事に取り掛かろう。
隆三の頭の中で、生き生きとした思案が、ぐるぐると回り始めた。もうちょっとや、もうちょっとで、利休はんにも恥ずかしない、上等の酒を造ることが出来るんや。しかし隆三には解決しなければならない、もう一つの重大な問題が残っていた。それは酒造免許の取得である。今まで何度も手が届きそうになっては、費えていたこの一番大事な課題を、この際一気に解決しようと考えた。
もうこうなったら、明日いっぺんに両方ともやってしもたろ。あの男のところに行って、儂と一緒に堺で酒造りしようて、決心させたろう。もう待った無しや。
よっしゃあ、やるでえ、利休はん待ってておくれやっしゃあ。隆三は辛気臭いことが、大嫌いであった。腹を決めた隆三の背中を十五夜の月が優しく照らし、利休の安堵のため息のような柔らかい風が彼の頬を撫でていった。「隆三よ、しっかりやるんやで、この利休がついてるさかいな。」そんな声がどこからか聞こえてき終わりの夜であった。(次回へつづく)