「利休の酒」~堺の酒蔵復活物語~ 2 (事実に基づいています。) Masters顧問 森脇太郎

<コラム> 「利休の酒」~堺の酒蔵復活物語~ 2 (事実に基づいています。) Masters顧問 森脇太郎
浪花の海風
 堺は泉州の南の端に位置している。海辺に立てば、六甲の山々が手が届くかのように近くに見える。「そや、あの山の下を通って、地下水が西宮辺りに湧いて出てるんや。宮水言うて、昔から酒の仕込み水に使われてる。あの酒造りの町で、一生懸命頑張ってええ酒造り続けてるあいつに、この話を頼むしかない。」
 隆三は酒蔵にと目星を付けていた、老舗の料亭の主人との仮契約を済ませ、次の課題を一気に片付けようとしていた。
 老舗料亭の主人は、契約を済ませた後、隆三に言った。「あんさんらが、うちの店の後を使うて、堺に酒蔵を復活させてくれはるんやったら、私らも本望ですわ。」
 この言葉は彼を勇気づけ、次の目標達成へと力強く押し出してくれた。もう彼には何の迷いもなかった。隆三は真っすぐに目的地に向かった。そこには年来の友人で、六甲山の麓で酒蔵を営んでいる、和泉が待っていてくれた。
 和泉はまだ迷っているようだった。無理もない、代々この地で続けていた酒造りを、そう簡単にほかの土地に移してしまうことなど、思い切れるものではなかった。
 隆三は和泉の気持ちが、痛いほど分かっていたが、それを考慮する時間的な余裕は彼にはなかった。「このままここに残るのか、それとも儂と一緒に堺で新しい酒造りを始めるのか。今すぐに、ここで決めてくれ。」隆三は和泉に強く迫った。彼も必死だった。
 その迫力に、遂に和泉も首を縦に振った。「分かりました、西郷さんの情熱に感服しましたわ。これからは堺で一緒にやりまひょ、新しい蔵で新しい酒を造りまひょ。どうぞよろしゅう頼んます。」これは和泉にとって大変な決断だったと、隆三は心の底から思った。感謝の気持ちで、胸が一杯になった。
 「おおきにおおきに、ほんまにおおきに。これで堺の酒蔵が再興できる、君のお陰や。」六甲の山々は、少し色付いて来ているように見えた。長い間追い掛けて来た堺の酒蔵再興の夢が現実となって、彼の目の前にあった。山に秋が近づいているのを、知らずに過ごしていたことに、隆三はやっと今気が付いた。
 「こんな綺麗な景色見るのん、なんや久し振りのような気がするわ。」夢中で走り続けてきたこの十年程を振り返って、隆三はいかに自分が無我夢中で、堺の酒蔵復興にのみ時間を注ぎ込んで来たのかを、心底思い知ったのだ。
 和泉の蔵から、少し山の手に上がり六甲を背にして、隆三は目を細めながら遠くを眺めた。
 眼下には神戸から芦屋にかけての街が広がり、その向こうにキラキラと輝く海を隔てて、大阪から堺そして泉州の山々を望むことが出来た。
 隆三の目には真下の酒蔵の街から、浪花の海を隔てて堺の街まで、大きな虹が掛かっているように見えた。美しい虹の橋を渡り潮風に載って、自分の十年来の夢が現実となって、堺の街に届いたことを強く感じていた。
 早速、酒蔵造りの作業が始まった。1階の駐車場と倉庫部分をきれいに空っぽにして、酒の仕込みのための冷蔵室を設え、その周囲に蒸米用の蒸気ボイラーや甑(こしき・大型のセイロ)を配置して、水道や蒸気の配管をつなぎ、麹を作るための室(むろ)も作って、その後、真ん中に米を洗ったり蒸米を冷やしたりするためのスペースを確保した。
 「これで酒造りが始められる。みんな心を一つにして沢山の人に喜んでもらえる、ええ酒を造るためにがんばろうな。」隆三は志を同じくし、堺の酒蔵復興のために集まってくれた数人の人達と手を携えて、千利休の名に恥じない銘酒を造ることを固く心に誓った。十数年続いた模索の時は終わり、蔵の設えも整って、兵庫県三木吉川の特A地区の酒米、山田錦を高々と積み上げ、いよいよ船出を待つばかりであった。
 蔵造りに奔走した激動の1年は年の瀬を迎え、隆三は月の光を背に浴びながら、浪花の海風に乗ってここまで来た今の喜びを噛みしめていた。 
ご存知でしょうか。  かつて堺が日本有数の酒どころであったことを。
現在、堺の製造業といえば、刃物や自転車、線香、和ざらし、手織段通などが知られています。しかし、大正時代までは堺の製造業の第一位を酒造業が占めていたことを知る人は、もうほとんどいません。堺の酒造業の始まりは中世・室町時代といわれ、江戸時代の初めには京、大坂、奈良と並んで、堺は全国的な酒どころとして聞こえていました。当時、酒好きの江戸っ子たちに“下り酒”としてもてはやされた上方の酒を運んだのも、やはり堺の商人が考案した「菱垣廻船」です。明治以降も、堺の酒造業者の鳥井駒吉(現アサヒビールの創始者)が瓶詰め酒を考案し(それまで日本酒はすべて樽詰め・小売りは量り売り)、流通の革新に貢献。また、醸造改良試験所や醸造組合も堺の酒造業者が他に先駆けて設立するなど、日本酒の普及、業界の発展を牽引してきました。ところが、堺の酒造業は大正時代をピークに、昭和に入ってから下降を続け、明治13年には95軒もあった蔵元が昭和8年には24軒まで減少し、昭和46年を最後に堺の酒づくりの火は消えてしまいました。
自由都市、町衆文化の町”の輝きと  活力をもう一度、堺に。
堺市は政令指定都市として規模的には大きく成長しましたが、地方の地盤低下のなか、例外ではなく活気を失いつつあります。そしてまた、人口が増え市域がどんどん拡大するにつれ、歴史や文化、伝統への関心が薄れ、まちのアイデンティティも失われつつあるのが現状ではないでしょうか。堺は室町時代から戦国時代にかけての中世16世紀、遣明船の発着地として栄え、豪商たちが「納屋衆」や「会合衆(かいごうしゅう・えごうしゅう)」と呼ばれる自治組織を形成して自由と自治を守り、日本一の先進都市を築いて、さまざまな文化を生み、育んでいました。しかし、今日ではその栄華も旧市街に残る寺社、旧跡にかすかな面影をとどめるだけで、“黄金の日々”をしのぶよすがはほとんどありません。私達が堺の地に酒蔵を再建し、堺の地酒の復興を企図し、さまざまな活動を続けてきたのも、かつての会合衆の気概にならい“自由都市、町衆文化の町・堺”の輝きと活力を取り戻したいと願うからに他なりません。


次回月例会は、10月17日(水)15時より開催します。
※独自の技術・商材に興味や情報をお持ちの方、コラボレーションにご興味のある方はお気軽にご連絡下さい。
連絡先:TEL06-6110-8050 E-mail:ryu.takahara@masters.coop 協同組合Masters 担当:高原、濱出