―お布施の話―/会長 濱出 健一


<コラム> ―お布施の話―     会長 濱出 健一
前回の月例会で私がお話させて頂いたことを再度コラムに書かせていただきました。
お釈迦様のお弟子さんに目連尊者という方がいらっしゃいます。
目連は修行で神通力を得た人で、神通第一として称えられるほどの人です。
ある日、目連は「私を育ててくださった母親は元気だろうか?」と思い、神通力を使って母親を透視することにしました。天道、人減道、修羅道、畜生道と透視しましたが母親を見つけることが出来ず、地獄を透視すると母親は我鬼道にいることを知りました。餓鬼道とは食べた物が炎となり、飲み水が熱湯となる世界です。そして空腹のゆえに腹は腫れ、鬼の姿として生きるのです。
目連はその姿に戸惑いました。たくさんの食べ物や飲み物を用意してくださった心の優しい母親がなぜ餓鬼道という苦しい世界に落ちたのか。その理由をお釈迦様に尋ねることにしました。
お釈迦さまは「あなたの母親はあなたには優しかった。しかし、あなたの母親は他人に施すことがありませんでした。」
あるとき、目連の母親が両手いっぱいの食べ物を運んでいたとき一人のお坊さんが「何か食べ物を恵んでくださいませんか」とお願いしたところ「これは目連の分だからあんたにあげる物何もないよ」と言って去っていきました。また、目連の母親が大きな水瓶を持っていた時、村人が「暑くて意識がもうろうとして今にも倒れそうだ。良ければその瓶の水を分けていただけないだろうか」とお願いすると、母親は「これは目連の分だからあんたにあげる物は何もないよ」と言って去っていきました。
目連の母親の心は貪りの心にとらわれていたのです。そのため、欲しくてもその渇きを潤すことのできない餓鬼道に落ちてしまったのです。さて、目連はそれでも母親を救いたいと願い、お釈迦様にどうすれば助けられるかと尋ねたところ、「母親が他人にしなかったことをしてあげなさい」と言われました。目連はさっそくお坊さんや村人を集めてたくさんの食べ物、飲み物を施したところ母親が天道に昇る姿が見えました。目連はうれしさを体で表現しました。一説にはその動きが今日の盆踊りとして伝わったと言われています。また、目連の施しは盂蘭盆会(お盆)として日本に伝わり、私たちもご先祖様に施しをするようになったと伝わっています。目連の母親に足りなかったものは布施の心です。布施と言ったらお坊さんに渡す物を思いますが、それは布施の一部にすぎません。 物やお金がなくても人のために無償で動くことが布施です。
他人のために何かをして、互いに助け合うことが大切なのではないでしょうか。
この考え方が協同組合の根底の精神であり互いに助け合うということが自分にも利益をもたらすという結果になり、ともに栄えるということです。
話を変えると、『欲せんとするには先ず与えよ』ということです。
愛される〇〇」という言葉があります。
それはこの愛される愛するに変えて座右の銘の一つにされてはどうでしょうか?
もちろん愛するは愛されるを意味し、本質的にも結果的にも同じです。
しかしながら、私には、されるは「俟(ま)つあるを恃(たの)み」となり、するはより能動的な、一歩前進に思われます。
また、愛される前に愛することは観念的にも道義的にもそうあるべきで、その真理は「播かぬ種は生えぬ」の道理に通じ、「欲せんとするには先ず与えよ」の精神です。また「果たして求める」の結果かと思います。
さて、この愛という言葉についても、いろいろと解釈は有りますが、私がもっとも共鳴するのは、「愛とはその人の気持ちになること」と、具体的に定義づけた解釈です。
「相手の身になって考える」ということです。
例えば、親が子に何かを買い与えてやる場合も、その子供の気持ちを知らず自分本位の考えによる品物では、子供にそっぽを向かれてしまう可能性があるわけです。それは、夫婦、兄弟、友人、あるいは職場等のすべての関係に共通します。お互いが相手を理解してそれを叶えてやるのか、またそのように努力する、この現代社会においては、とくに必ず必要になる条件ではないでしょうか。
皆様、是非「協同組合とは何ぞや」ということを今一度深く考えて見てはどうでしょうか。
考える場に参加して見てはどうでしょうか。
議論する場に参加して見てはどうでしょうか。


「他利」とは何か?
次回月例会は、11月21日(水)15時より開催します。
※独自の技術・商材に興味や情報をお持ちの方、コラボレーションにご興味のある方はお気軽にご連絡下さい。
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