天安門事件30年――日中それぞれの国柄を考える契機に(※7月の続き)

<コラム>天安門事件30年――日中それぞれの国柄を考える契機に(※7月の続き)

From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学

王氏の分類を私なりに解釈すれば次のように言えるでしょう。
広大な大陸国家である中国は、伝統的に民族の移動が激しく、様々な王朝が頻繁に入れ替わってきた。「文化」も入れ替わり、継続性に乏しく、共有もされにくい。中国では、文化を育むはずの村落などの地域共同体(中間共同体)もあまり発達しなかった。国民相互の連帯意識や愛国心の育成も困難だった。そのため、秩序を作るためには強大な政治権力に頼るしかない。中国では伝統的に強権的な中央集権国家しかほぼ作られてこなかったのはそのためである。
他方、島国である我が国は、人の移動があまりなく基本的に定住型の社会を作ってきた。地域社会の形成も進んだ。そのため、常識や慣習、慣行などの「文化」が継承されやすい。国民相互の連帯意識や愛国心も比較的育みやすい。強大な政治権力頼らずとも、人々の常識や慣行、規範意識、連帯意識によって秩序形成は比較的容易である。
実のところ、日本で自由民主主義のような穏健な政治が可能なのは、日本が「文化社会」だからであろう。
天安門事件から30年が経過しましたが、「権力社会」としての中国の特質はあまり変わっていないようです。
だが国家による管理の手法は、非常に進化したように見えます。最近、英語圏の論説で「デジタル権威主義」とい
う言葉をよく目にします。「デジタル権威主義」とは、国家がIT(情報技術)やAI(人工知能)などの科学技術を駆使して国民生活を隅々まで監視し、管理する体制を築き上げていくことを指します。
最近、中国は電子マネーを急速に普及させ、キャッシュレス社会の実現を進めているが、これは金の流れを記録し、国家管理を強めるためでもあります。国民の信用度を数値化した「信用スコア」の政府による利用も進んでいると聞きます。新しい形の権威主義国家体制の構築が進んでいるとみることができるでしょう。
では、我が日本はどうでしょうか。日本は、自由民主主義を今後も続けることができるのでしょうか。現在のままだと、私は少々悲観的です。
天安門事件があったのはちょうど平成元年ですが、そのころから日本は、徐々に構造改革を進め、「グローバル化」(多国籍企業中心主義化)を目指してきました。
その結果、国民生活は疲弊し、多くの地方は廃れ、少子化や東京一極集中も進んでいます。
今年からは、人手不足を補い、多文化共生を進めるなどの名目で外国人単純労働者の受け入れも始まりました。
グローバル化を目指すこうした構造改革が今後も進めば、日本社会も徐々に「文化社会」から「権力社会」へと移行せざるを得ないのではないでしょうか。
日本でも「文化」の共有の条件は崩れ、秩序を作り出すのが非常に難しくなります。 「文化」の共有のないバラバラの個人の間に秩序を作り出すためには、中国のように管理国家化を進めざるを得なくなります。日本でも最近、中国に倣ってか、「信用スコア」という言葉をときおり目にします。日本も、テクノロジーを使った外見上ソフトな管理国家化に進んでいくのではないでしょうか。「グローバル化」を進めるとすれば、そうでもしないと安定した秩序は作れませんからね。
いやですよね、こういう流れは。私は、日本は「文化社会」であり続けてほしいと思います。
天安門事件30年を、日本や中国の社会的特質の相違、今後の日本社会のあり方について改めて考えてみるきっかけにするべきではないかと思います。